Vol.2発刊にあたり

「このひとこのみち」とは、活躍する西湘高校卒業生を紹介するコンテンツとして同窓会独自の視点と取材で構成し、現役生や学生にとっては将来の夢を、先輩にとっては後輩の躍進を、同年代には刺激を感じてもらえる様なヒューマンストーリーを目指しています。
第2号はアフリカで起業し成功を収めた、伊藤淳さん(41回生)のストーリーです。幾度の転機から現在に至るまでの展開がとても印象的です。

Vol.2 伊藤淳さん 41回生 / 時代も人生も先が読めないからこそ楽しい。アフリカでの起業から次のステップへ

大学卒業後、コンサルティング会社での勤務を経て、アフリカで起業した伊藤 淳さん。(41回生)予定調和な人生など無いと語ります。どのようなきっかけでアフリカへ渡り、起業し、現在に至ったのでしょうか。

”41回生の伊藤 淳と申します。卒業生として本コーナーで紹介頂けるとのこと、嬉しく思います。”

発達障害で悩んだ小学校時代

伊藤淳さん
小学校時代の伊藤淳さん

小学校入学の頃まで遡り振り返ってみたいと思います。
小学校低学年の頃は、クラスに溶け込むのが苦手な子どもでした。小学校入学当時、発達障害と診断されていた私は、普通小学校への入学が難しい言われてきました。その中でも、母が掛け合ってくれ、何とか地元の普通小学校に入学できるような状況でした。 小学校へ入学できたのは良かったのですが、当時は発達障害への理解などもなかったようで、低学年の頃は学級崩壊の原因になると教室に入れてもらえない事もありました。
当時の私は5段階評価で1や2が多く、勉強の出来ない子供でした。また、運動神経も悪く、体育、運動会などは高校卒業まで苦手意識を持っていました。(今では運動するのが好きで、色々なスポーツも嗜んでいます。)

勉強が苦手だった私でしたが、小学校3年生の時に転機が訪れます。小さい頃から機械や乗り物が好きで、算数と理科の授業は興味をもって聞いていました。
担任の先生から、得意な算数と理科について褒めてもらったことで、苦手意識のあった勉強に初めて自信が持てた瞬間でした。

その後は人並みに勉強できるようになり、地元の公立中学校へ進学しました。


自由な西湘高校の校風

西湘高校時代の伊藤さん
西湘高校時代

高校は、家からも一番近いという理由で西湘高校に入学しました。 自由な校風の西湘高校は、縛られるのが苦手な私には楽しく、自由にのびのびとした学園生活を過ごすことができました。
当時の西湘高校は、地元の進学校といえど、全員が名の知れた大学に行くわけではありませんでした。進学しない選択肢もありました。私も高校2年生の夏、大学に行くか、専門学校にいくか、悩んでおりました。
小さい頃から乗り物が好きで、将来は乗り物に関わる仕事をしたいと考えてた際に、担任の先生に相談したのは二度目の転機になりました。
『専門学校にいってメカニックとして働くか、大学にいってエンジニアに行くか悩んでいる。家計的にも大学に行くのは厳しいかもしれない。』と相談したところ、 担任の先生から 『あなたの目指す道を実現するには、大学へ進学した方が良い。金銭面については奨学金を得るなどの選択肢もある。心配しなくていい。』との言葉を頂き、これがきっかけで大学への進学を目指すことになりました。

乗り物を作るエンジニアになりたい! その想いから機械工学科のある大学を受験しました。学費を考えると国公立大学一択です。しかし、元来、暗記科目が苦手な私にとってセンター試験の文系科目が重荷になり、現役では志望校に合格できず。 一浪の末、私立の上智大学に入学しました。(一浪しても国公立には入れませんでした。)


フォーミュラーカー作りに熱中した大学時代

F-SAE日本大会優勝
F-SAE日本大会優勝のアワードとして、東京モーターショーに出展

※参考:フォーミュラSAE - Wikipedia

上智大学へ入学後は奨学金を受ける事ができ、アルバイトと奨学金で学費・生活費を賄う事ができました。一人暮らしをする金銭的な余裕はなく、小田原から片道2時間をかけて通いました。

入学して3ヶ月が経ったある日のこと、学内にFormula-SAEという活動があることを知ります。Formula-SAEとは学生が自作したフォーミュラーカーで競うレーシング競技会で、1981年にアメリカで始まり世界中の大学が出場していました。
2001年入学当時、日本国内の大会はなかったのですが、日本から3校、アメリカ本土の大会に出場している大学がありました。上智大学もそのうちの1校でした。F-SAEの存在を知った私はすぐに入部。1年生から憧れの乗り物作りに関わることができました。

理系の学部といえど、実践的な学習は3年次から。通常1-2年生は基礎や座学を中心に学びます。しかし、F-SAEに参加した私は、1年生から3D-CADを使い設計し、校内のマイスターと呼ばれるプロの方の指導を仰ぎながら、最先端の工作機械を使ったモノ作りに関わることができました。
3年の時には、日本国内初のF-SAEの大会が開催され、上智大学は第一回全日本大会の優勝校となりました。

日本大会が終わった3年生の秋頃。次の進路を決めるタイミングが訪れます。周りの友人が就職活動を始めた頃、私は大学院に進学し研究を続けるつもりでした。理系の学部なこともあり、同じ学科の同級生の8割は大学院へ進学します。
また、研究室の教授も、私の家計の事情を鑑みて、2年間の全額免除の奨学金の推薦状を用意くださいました。
ただ、幸か不幸か、F-SAEの活動を通して1年生からエンジニアの疑似体験をしてきました。その経験を通して『エンジニアの仕事は楽しいが、一生の仕事にしてよいのか。』迷うようになっていました。
大学院進学と迷いながらも、友人が参加する就職セミナーに付いていきます。気づけば、エンジニアの職ではなく、総合職で応募していました。
総合職といえど、乗り物好きは変わらず、航空会社、鉄道会社など乗り物の会社の総合職に応募しました。しかし、これらの企業は全滅。落胆の中、 友人から勧められたのが経営コンサルティングの会社でした。
当時の私はコンサルティングが何かもわからず、友人の勧めるままに応募。アクセンチュアという外資系の経営コンサルティング会社から内定を頂きました。その頃にはエンジニアへの未練もなく、これも何かのご縁とアクセンチュアに入社する事にしました。
大学卒業時、ろくに英語も話せない私でしたが(当時のTOEICは400点)、将来は世界で働きたいという憧れだけは持っていました。 外資系であれば世界で仕事できるだろうと淡い期待を抱いておりました。


スノーボードの怪我からアフリカへ

振り返ると、アクセンチュアへの入社はベストな選択でした。短期間で様々な業界・業種に関われるコンサルティングの仕事は、好奇心旺盛な自分の心を満たしました。
何とか一人前に仕事ができるようになった社会人4年目。次の転機が訪れます。
当時、ハマっていたスノーボードで、背骨を骨折。2ヶ月の寝たきり入院生活を余儀なくされます。プロ(社会人)としてはあるまじき行為。上司、お客さん、同僚の皆には多大な迷惑をかけてしまいました。
しかし、この怪我がアフリカへ導くきっかけになります。

入院中、周囲の方の数え切れない好意に支えて頂きました。その中で、『もっと社会の役に立てる仕事をしたい!』と思うようになり、社内のボランティアプログラムに応募しました。 人材育成と社会貢献を目的としたプログラムで、社員を途上国のNGOや自治体へ派遣する制度です。
何とか選考を通り、2010年、アフリカ・ケニアの田舎、マサイ族の村にボランティアとして派遣されました。
電気も水道もないサバンナの真ん中。周囲には野生のキリンやシマウマ、ゾウが生息する場所に9か月間滞在しました。先週まで六本木のオフィスで働いていた私が翌週にはマサイの村で生活をする。 この経験が人生の価値観が大きく変えます。
帰国後は、ケニアでの経験を活かし、グローバルプロジェクトへ参画。 3年間で約25か国で働きました。 プライベートでも、社会起業家の支援、アフリカビジネス勉強会を開催するようになり、次第に起業×アフリカの想いが増してきました。


マサイコミュニティの方々へのプレゼン
マサイコミュニティの方々へのプレゼン
カバと私(アンボセリ国立公園内)
カバと私(アンボセリ国立公園内)
ナイロビ駐在時(ナイロビのカフェにて)
ナイロビ駐在時(ナイロビのカフェにて)

帰国後、ケニアでのボランティアを活かし、グローバルプロジェクトへ参画。 3年間で約25か国で働きました。 また、プライベートでは、社会起業家の支援、アフリカビジネス勉強会を開催。
起業×アフリカへの想いが次第に強くなっていきました。


アフリカから世界を変えるイノベーションを生みたい!とウガンダで起業

世界でも有数の社会課題の集積地、アフリカ。解決策もなく、既存のインフラも整っていません。
既存の解決策が通用しない。だからこそ、イノベーションが生まれるのもしれない。『辺境から世界を変えるイノベーションを作る!』ことを夢見て、8年半勤めたアクセンチュアを辞め、アフリカへ渡ります。東アフリカのウガンダで起業しました。

いくつか事業を失敗したのち、ラストワンマイル宅配のCourieMateを創業します。住所のないウガンダにおいて、田舎も含めた全国への宅配サービスは困難の連続でした。
貯金が尽きて翌月の支払いに困る事もしばしば、警察による不当な逮捕、従業員の不正、汚職など日本では考えられない問題が多発します。
紆余曲折ありましたが、ウガンダ全国135県で現金代引サービス提供する初めての宅配会社になりました。 2021年現在でも、ウガンダ全土で現金代引の宅配サービスを提供できるのは弊社だけになります。
個人の貯蓄、中古バイク一台から始めた会社が、4000万人の人口を抱えるウガンダで、ゼロから全国配送の宅配ネットワークを築きました。そして、過去にどの事業者も達成し得なかった現金代引サービスを実現できたのは、一つの誇りです。

ウガンダでの事業について: 日本人がウガンダで取り組む 宅配サービスのアップデート


最初の人材育成事業
最初の人材育成事業
CourieMate時代のチーム
CourieMateのイメージフォト
CourieMateのイメージフォト

人生のご縁に感謝しながら

ウガンダの標高4050mのエルゴン山登山の時の写真

2020年11月。創業から7年のタイミングでウガンダの事業を日系の大手企業へ譲渡・売却しました。
一般的には起業した事業を大手企業などへ売却することはエグジットと呼ばれ成功の一つの形ではあるのですが、私のケースでは自分で続けたかった想いもあり、手放しで喜べる状況ではありませんでした。
なぜ、事業を手放す事になったのか、ご興味ある方は、以下の記事をお読み頂けたら嬉しく思います。

事業譲渡の経緯について:
お知らせ:CourieMateの全株式・事業を譲渡し、経営および事業から離れます|Jun Ito|note

昨年7年ぶりに日本に帰国。現在は、次の『持続可能な社会を作るイノベーション』を生むべく、新たな起業の準備を進めているところです。

西湘高校に通っていた当時、世界を飛び回り、アフリカで起業する人生は夢にも思っていませんでした。
時代の変化が早い昨今、自分自身の価値観も年々大きく変わっていきます。 しかし、予定調和の人生はおもしろくありません。先が読めないからこそワクワクします。

進路に悩むこともあると思いますが、10-20年後の未来を心配するよりも、目の前の活動(仕事)をいかに楽しむか?を心がけています。その時々の出会いに感謝し、ご縁を大切にすることで、自然と次の道は開かれるように思います。

参考:どうして「視野」を広げるだけでは不十分なのか?~不確実性時代のキャリア志向|Jun Ito|note

このひとこのみちに関するお問い合わせ

本記事に関してのご意見、お問い合わせは、お気軽にお寄せください。
ご連絡のフォームはこちら

神奈川県立西湘高等学校同窓会 事務局

〒258-0028
神奈川県柄上郡開成町金井島974-1 瀬戸俊彦方
TEL 090-2558-2092 FAX:0465-20-3524


このサイトは、サイバートラストのサーバ証明書により実在性が認証されています。また、SSLページは通信が暗号化されプライバシーが守られています。